コラム
Columnコロナ禍の欧州へ 事務局・古木の訪問記(その14)
帰国前夜、訪ねてきた2人が語ったこととは。
ノヴィ・サド訪問の目的もほぼ終了し、明日の帰国を前に荷造りをしていると、欧州文化首都ノヴィ・サドのヴラジミール(Vladimir)さんから電話がかかってきた。「突然で申し訳ないが、同僚のラザロ(Lazar)とボヤン(Bojan)が話をしたいので、是非時間を作って欲しい。」とのこと。ヴラジミールさんは、いつも私たちの窓口となり誠実に対応してくれている方だ。もちろん即座にOKした。2人は、欧州文化首都の重要プログラム「平和の砦 (Fortress of Peace)」の担当者。どうしても話しておきたいと真剣な表情に私も身が引き締まる思いで話を聞いた。このプログラムは、人類史上繰り返されてきた戦争について、未来志向であらゆる角度から再検証する試みだ。第3次世界大戦の脅威が立ちはだかっていないとは誰も断言できない。
ノヴィ・サド最後の晩、語り合ったラザロさん(左)とボヤンさん(右)
20世紀は戦争の世紀とも呼ばれた。第1次世界大戦は、このバルカンで始まり瞬く間に多くの国々が巻き込まれ、かつてない大規模な殺戮の応酬が繰り広げられた。その後、欧州から始まった第2次世界大戦は、6千万人ともいわれる犠牲者を伴い、その後も局地的な紛争は後を絶たない。芸術文化は決して平和の手段ではないが、欧州文化首都開催を契機に世界中の多くの人々が参加し、議論が繰り広げられることの意義は大きい。歴史はいつもその時代の為政者の意向が反映されている。事実と真実は必ずしも同じものではない。だからこそ、様々な立場の人たちが集まることの意義は計り知れない。
平和を連呼すれば、平和を獲得できる訳ではないことを、私たちはこれまでの多くの平和運動から学んでいる。欧州統合は、人類史上、初めての平和の取り組みと言える。前世紀の2つの世界大戦はいずれも、この地に端を発し地球全体を戦禍に巻き込んだ。その深い反省から欧州統合が生まれ、今や欧州大陸には広大な平和ゾーンが広がっている。
NATOによるセルビア空爆は、わずか20年前のことであり、この国の若い世代にとって、この記憶はまだ生々しく残っている。75年間も平和が続き、安定、安心、安全が当たり前であると考えている私たち日本人にとって、なかなか実感することは難しい。2人は続けた。「日本は先の大戦で空爆により全国土が焦土化し、世界で唯一の被爆国となった。そのことを私達セルビア人もしっかりと学びたい。」そこで私は、2016年の欧州文化首都サンセバスチャン(スペインのバスク地方)が取り組んだ「平和条約」というプロジェクトを紹介した。バスクは19世紀以降スペイン中央政府からの弾圧や差別に苦しんできた。1960年代以降のETA(バスク祖国と自由)などの民族組織による数多くのテロ事件は、2011年の休戦協定締結まで続いていた。セルビア同様、戦争はごく昨日のような出来事だった。「平和条約」では、戦争、そして和解にちなんだ膨大な歴史の史実を展覧会にまとめた。展示の中には、1945年8月6日午前8時15分、広島の原爆投下によって止まったままの3つの掛け時計、そして、焼けただれた置時計もあった。展示を凝視し立ち続けていたバスクの人々の姿がいまなお脳裏に浮かぶ。
サンセバスチャンの「平和条約」のカタログ
バスクと日本の関係について、16世紀にキリスト教を日本へ伝えたフランシスコ・ザビエルがバスク出身であったことぐらいしか思い浮かばないが、私にとってのバスクは、1991年北アイルランドのベルファーストのカトリック地区に始まる。アイルランド紛争によるテロ事件も相次ぎ、市街地はプロテスタント地区と高い壁で仕切られていた。この地区に足を踏み入れると住宅の白壁の多くにはIRA(アイルランド共和軍)を鼓舞する勇ましい壁画が描かれていた。その中に、3人の兵士が武器を片手に固く手を握り合っている壁画があった。「ともに団結し、闘い続けよう。」IRA、PFLF(パレスチナ解放人民戦線)そして、バスクのETAの兵士たちの姿だった。彼らが繰り広げるハイジャックや爆破事件などのテロ活動は当時の世界を震撼とさせていた。さらに私にとって忘れられない、衝撃的な事件が起こった。私が滞在していたベルファーストのホテルヨーロッパが、チェックアウトの数日後、IRAによって爆破されたのだった。当時、25年後2016年に欧州文化首都がバスクのサンセバスチャンで開催されようと、誰が想像しえただろうか。翌年の2017年3月、ETAはフランス側のバスク地方で記者会見を行い、最終的不可逆的に戦闘を終了することを宣言、隠し持っていた大量の武器弾薬はフランス警察に引き渡された。
サンセバスチャンの「平和条約」に続く、ノヴィ・サドにおける「平和の砦」プロジェクトは、平和の意味を再度語り合い、意見の違いを実感し、そして、共通の未来に向かっての道筋を見つけることに繋がる。「世界平和は、その危機を上回る創造的努力なしには達することはできない。」との欧州統合の理念は、世界がコロナ禍のパンデミックの今こそ一層の意味を持つ。
ノヴィ・サドの2人は、早くもサンセバスチャンの関係者と連絡を取り始めた。日本への調査交渉の計画もある。平和を願うだけでなく、1つ1つの行動を積み重ねようと2人と誓い合い、その夜が終わった。旅の最後に来て、この欧州訪問にまた1つの大切な意味が加わった。
その日、ヒロシマ。午前8時15分で時計は止まった。
※次回は10月12日